ハリウッドの高台にあるドライブウェイ、闇の中ヘッドライトに浮かぶ「マルホランド・ドライブ」の標識、車内には男二人と黒髪の若い女(ローラ・エレナ・ハリング)。
そして衝突事故。
女だけが生き残り、よろめきながらサンセット大通りの住宅街へ。
翌朝、年配の女優が玄関先で旅仕度をしている隙に、黒髪の女はその留守宅へ入り込む。
そこへ出掛けた女優の姪ベティ(ナオミ・ワッツ)がやって来る。
半ば記憶を失っていた黒髪の女はとっさにリタと名乗る。
事情を知ったベティはリタに同情し、彼女は一体、どこの誰なのか突きとめようとし始める。
リタのバッグから出てきたのは大金とブルーの鍵。
その他に手がかりとなるのは、彼女のつぶやいた「マルホランド・ドライブ」という言葉だった。
目が覚めて、夢の夢たるを知る。
…そのきっかけとなるのが、映画の半ば、深夜のクラブ・シレンシオという劇場のシーン。
そこに登場する得体の知れぬ司会者の「これは、すべてイリュージョンです。」という言葉と、いつの間にやらベティが持っているブルーボックス(これが現実回帰の玉手箱)によって、やがてこの映画が、死者の見た夢(妄念)である事が判明すると共に、翻って、このクラブ・シレンシオの場面は、夢の中の夢すなわち、“現実”の彼女たちの正体へつながる重要なシークエンスである事が明らかになる。
クラブ・シレンシオのステージで絶唱する泣き女の歌に、ベティ(実はダイアン)は打ち震える。
そのわななきは、自分を見捨ててスター女優になったカミーラ(リタの正体)を殺めてしまった事に対する“自責感情”の発露である、と同時に、過ちを犯さざるを得なかった自分に対する悲しみでもある。
我れを悲しむとは、そこに捨てきれぬ我れがあるという暗示でもある。
ダイアン(ベティ)は罪悪感から自暴自棄となり、結局みずからの命をも断つのだが、捨てきれぬ自我を、その夢(妄念)にかえてこの世に残した。
実に悲しい夢である。
ラスト直前、顔黒のホームレス(安住の場が無い象徴か?)が、例のブルーボックス(ダイアンの現実を内包するもの)を手にしているではないか!
その上、その中からはダイアンの見た夢の断片や、強迫観念が次々とあふれ出て、ダイアンを責め立て、死へと追いやってしまうのだ。
…ということは、ダイアンの魂は安らぐ場を持たず、迷いさすらうのであろうか?
否、このシーンはむしろ、死して帰るべき“ところを得る”こと、すなわち “救い”であるという事を反証するものと思いたい。
何故なら、彼女は身を震わせる程の自責感情を持っていた、つまり、わが罪を自覚していた。
それはあたかも、光に照らされてこそ、闇の深さが知られるごとく、彼女が目覚めの光の中にあることを意味する。
わが罪(闇)を知る者は、すでにその身を光の中においているのだ。
この光にふれた彼女の魂は、カミーラへの嫉妬の炎を、懺悔の涙へと転成させ、カミーラへの羨望より生じた夢(妄念)を、彼女との同体愛に純化させたに違いない。
今や、ダイアン(ベティ)は、カミ−ラ(リタ)と共に、慈光の中(にところを得て)、安らかな眠りにつく(救いの成就)。
…その事をラストシーンの“シレンシオ”〔お静かに〕という言葉、すなわち静寂イコール〔涅槃寂静〕なる語として示されている。
…こんな風に私は勝手な解釈をする。
その訳は、こんなにも素敵なベティ=ダイアン(ナオミ・ワッツ)が、不成仏霊(と呼ばれる何か)になるなんて事は、私にはとてもたえられないから。
かえりみれば、私を含め人は皆、めいめいが作り出した自分勝手な夢の中で生きているようなもの。
もろく儚い命にもかかわらず、互いに是非善悪や好き嫌いを言い合い、自他を較べては、優越感をもったり、嫉妬してみたり…そうこうする内に、あっという間の人生、空しい一生を過ごす。
そのありさまは、まさに夢、幻そのものではありませんか。
“仏のみは真実なり”と聞いては、そのつもりでおがんで祈りをこらしても、絶えず、沸き起こる妄念妄想をどうする事も出来ない。
座を立てば、たちまち、家庭や仕事に煩いせかされ、身の置き所の無い、悩める主人公と化す。
「ああ、何もかもがまやかし、虚仮いつわりだらけのイリュージョンだ!」と言いたくなる。
すべてわが身に引き当ててみた上での、正直な思いであります。
映画の主人公ベティ=ダイアンは幸いにも目覚め、寂光の中にいる。
けれど、それは死後のこと。
では私自身はどうだろう、現世において愚かな夢から目覚めることなどあり得るのだろうか?
あらためて、そんな問いかけを突きつけられた映画でもある。
などと書きつつ、私は今、ベティを演じたナオミ・ワッツを思い浮かべている。
わが夢の中にさえ、彼女を閉じ込めようとしている。
それほど彼女は魅力的だ。
実にミステリアスで静かな興奮を催す映画、その魔力に魅せられた私は三度見ました。